―天竜川の治水―

金原 明善 (きんぱら めいぜん)

泉崎 博明

(左)山岡鉄舟、(右)品川弥二郎

山岡鉄舟も感服

明善が全財産を政府に献納するという話は、すぐに四方に広まった。旧知の山岡鉄舟が宿泊先に訪ねてきて、

「お前さん、そんな無法をして、この先どうするつもりじゃ。ほかにも方法があるだろうに…」「山岡様、無法なことは、よくわかっています。わたしは死を決して天竜川の治水をする決心です。死ぬことを思えば、財産など少しも惜しいとは思いません」

「うむ、なるほど」

「私は、これから車夫になったつもりで働きます。世の中には借金を持った車夫は五万と居ります。苦労もとより覚悟の上でございます」

この言葉に、鉄舟も感服して帰っていった。

金原明善の全財産献納は、文字通り全財産であった。家にある座布団、茶釜、米びつ、羽織、襦袢などの衣類、雨傘にいたるまですべて。その数、1685品、総売上額6万3116円7銭7毛であった。この金額は、現在の額に換算すれば、億単位の莫大な価格となるだろう。事実、この献納によって、明善の元に残ったものは、小さな風呂敷包み四つしかなかったので、巷では明善のことを「四品居士」といったという。

この献納に関して、明善には寂しい気持は少しも無かった。

ただ、「これもみんな天竜川治水のため。自分の望みが叶う。これで農民も安心できる」そう思うと腹の底からうれしさがこみ上げてくるのであった。

異例の明治天皇拝謁はいえつ

明治11年3月、明善は財産献納願書を静岡県知事宛に提出し、受理された。明善の苦心はここに報いられて、明善の献納金はすべて、『治河協力社』に下げ渡され、その上、政府から毎年2万3千円の補助金が向こう10年継続給付されることになった。明善のこの義挙(ぎきょ)は沿岸諸村の人々を大いに感動させた。これがキッカケになって、治河協力社には7万円以上の寄付金が集まり、これを機に、治水工事は急速に進展したのであった。

この義挙について、またこれまでの明善の業績について、政府、宮中まで知るところとなり、それは明治天皇のお耳にも達したのである。

明治11年9月から10月にかけて、西南戦争勝利の示威(じい)と、庶民の宣撫(せんぶ)をかねて、北陸道、東海道二道にわたって明治天皇の巡幸が行われた。その時、明善は、天皇に拝謁するという異例中の異例といえる光栄に浴するのであった。

この破格の『拝謁』が決まるについては、太政官から「無位無官の平民が拝謁を許された記録はない。」という意見が出たのだが、しかしこれには「では、無位無官の平民がかつて全私財を献じた先例ありや?」「その先例はない!」「では、先例無き誠忠に先例無き拝謁!これでよいではありませんか」

この問答によってけりが付いたのであった。

明治14年、政府の布告により、天竜川治水工事一切が、静岡県庁管轄の公共事業に切り替えられることになった。これを機に明善の「治河協力社」が携わっていた工事は残らず県庁に引き渡された。天竜川治水工事は、公共事業としてその後も引き続き行われ、全工事が完了したのは、明治32年であった。総工費は、実に66万円の巨額に上った。

しかし、この治水工事が、政府直轄の大事業として完成を見たその土台となったのは、いうまでもなく明善たちのそれまでの血の滲むような献身であった。

治水から植林へ
〜農務大臣品川弥次郎の鶴の一声〜

明治18年、金原明善は五十四歳になった。天竜川の治水事業は完全な直轄事業となっていた。この時から、明善は新たな計画を実行に移すことになる。「植林事業」である。これは「治水の元は、山林にある」というかねてからの明善の信念に基づいてのことである。

明治18年10月26日、「官林改良委託願い」を、静岡県庁を通して農務省に提出した。この申し出に、政府部内には、「金原明善は治水の専門家だが、山のことは素人だろう。無理に決まっている」という議論があった。

しかし、ときの農務大臣品川弥二郎の「あの男なら大丈夫。必ずやり遂げる。私が保証する」

この鶴の一声でことは決まった。これ以後、治水から植林へ、天竜川の治水と同じように、明善は全財産を植林事業へ投入していくのであった。