―天竜川の治水―

金原 明善 (きんぱら めいぜん)

泉崎 博明

大久保利通

内務卿・大久保利通を動かす

明治10年12月26日朝、東京は霞ヶ関の内務省官舎に、遠州木綿の綿入れに黒の紋付に袴、粗末な身なりの金原明善の姿があった。この日、内務卿・大久保利通に面会が許されたのである。

金原明善はこの十年、多くの人々と語らい資金を募り、天竜川治水工事のための民間会社「治河協力社」を作り、護岸の大工事を行ってきた。すでに自分の現金資産はほとんどこれに注ぎ込んでいたが、なおも資金不足はつづいた。そこへ追い討ちをかけるように、「水防規則七か条」という新法の施行に伴い、静岡県庁からの補助金年額2万3千円が1万円に減額されることになってしまった。明善は行き詰った。しかし、ここで工事を中止してしまったら、元の木阿弥。今までの苦労が水泡に帰し、次に洪水が起これば、築いた護岸築堤も一朝にして濁流に破壊されてしまうであろう。流域住民の苦境は永遠に救われない。

「もう、国家の力を仰ぐよりほかに道は無い」明善は意を決して、大久保への直訴を願い出たのであった。この異例の申し出が叶った背景には、多くの関係者の尽力はもちろんであるが、これまでの明善の捨て身の尽力について、大久保利通の耳にはすでに達していたのであろうとは思われる。

明善は決死の覚悟で、大久保内務卿の前に出た。

「天竜川工事のことで、わしに願いの筋があるそうだが、いったいどういうことか?」

眼光鋭くじっと明善を見つめて言った。それに答えて、明善は、工事の現状や地域住民の苦しい状況についての詳細を切々と訴えたのであった。大久保卿はタバコの煙を燻らせながら、明善の話にじっと耳を傾けていた。

ややあって、大久保卿は口をひらいた。「事情はよくわかった。だがの、金原どん。同様の陳情は全国から数々来ておる。甲の川の工事を援助するとなれば、乙の川からの申し出も拒むわけにはいかなくなる。維新なって十年。まだまだ国事多難の折、今の政府として、天竜川だけに金を出すわけにはいかんのだ。よほど特殊な事情でもないことにはのう…」

明善はがっくりした。「ダメか…」

暫く重苦しい沈黙が続いた。

そのとき、明善の頭の中にひらめくものがあった。大久保卿の最後に呟いた「…よほど特殊の事情でもないことにはのう…」という言葉。明善は「これだ!」と思った。ややあって、明善は改まった口調でこのように切り出した。

「では、特殊の事情があれば、ご考慮願えましょうか?」

すかさず言葉を続けた。

「わたくし金原明善の現金資産はこの工事にすべて注ぎ込んでしまっておりますが、まだ、先祖から受け継いだ家屋敷、土蔵五戸、七十余町歩の田畑、それに山林、茶畑、酒蔵等々、これらをすべて金に換えれば、およそ6万円になりましょう。これを残らず政府に献納いたしますから、工事費の足しにしていただき、その上で政府の特段のご配慮をお願い申しとう存じます」

さすがの大久保卿も、この明善の言葉には目を見張った。

「むむ。おぬし、丸裸になりきるつもりか。それでは、乞食をせねばなるまいが…」

「乞食、もとより覚悟の上でございます。沿岸百十数ヶ村の農民が、日々安らかに農作業が営めるようになれば、本望でございます…」「うむ…」明善の覚悟に、大久保内務卿は深く感じ入った。

「よしわかった。何分の沙汰を待たれよ」

「では、わが願い、お聞き届けくださいますか?」「金原どん、わしが『よし』といったら念押しは無用じゃ」

明善は、あふれる熱い涙を抑えることができなかった。