―天竜川の治水―

金原 明善 (きんぱら めいぜん)

泉崎 博明

豪農、金原家

さて、今から188年前、西暦1832年、(天保3年)6月7日、その天竜川の西側、河口に近い浜名郡和田村字安間(現在の浜松市東区安間町)というところに、「天竜川と深い因縁」をもった一人の男子が誕生した。その幼名・金原弥一郎(きんぱらやいちろう)、後の金原明善である。

金原家は代々この地の豪農で、先祖は鎌倉時代の武士であったという。

明善の父は、軌忠(のりただ)といった。非常に勤勉な人で、また農家でありながら商才にたけていて、質屋、酒蔵、金融業と手広く営み資産を増やしていた。また、時の領主・松平筑後守の信頼を得て、給人格(地方役人)という役も与えられていたのであった。

また、軌忠はこうした身分にもかかわらず、謙虚で同情心の深い人で、使用人や村人に病人が出ると、すぐに南瓜、団子などをもって見舞いに行くのが常であった。

弥一郎の母は、志賀子といった。しっかりした気丈な性格でありながら、とても慈悲深い賢夫人であった。幕末のこととて、東海道を籐丸駕篭(とうまるかご)にのせられて江戸へと護送されて行く尊皇攘夷の武士の姿などをみると、おかわいそうに…と涙を流し、自分の小遣いを節約して貯めたお金を夫に渡して「あの志士の方たちの追善供養をしてあげて下さい」と頼んだという。

明善の生涯の事業活動の動機は常に『国家』と『済民』にあった。そして、その元はこの両親の思いと生き様にあるように思われる。更には、その両親の思いは遠い先祖へと繋がっていくのであろう。

悲願

明善は33歳のときに親の後を継いだ。十代の頃から、父・軌忠の仕事を助けてきたことで、すでにその家業のすべてに精通していたのである。大地主の当主になっても、常に節約に心がけ、下男たちとともに仕事着に身をやつし、田に畑に出て陰日なたなく働く勤勉さは少しも変わることはなかった。

明善には、予てから、一つの悲願があった。それは、「天竜川の治水」である。子供の頃から、「あばれ天竜」の恐ろしさは骨身に沁みて知っている。「この川は美しい。が、油断のならない川だ。わたしら沿岸の住民は昔から、この川の洪水にずっと苦しめられている。一日も早く、頑丈な堤防を造っておかなければ、未来永劫、この苦難から抜け出せない…」明善はいつもそう思っていた。

明治元年、新政府になったことで、旧幕府時代の様々な制約が無くなった。これを奇貨とした明善は、「天竜川治水」という悲願に向かって早速に動き出したのである。