台湾を救った陸軍中将

根本 博

田上 敏明

タイム誌の表紙を飾った蒋介石(1933年)

台湾への密航

いてもたってもおられなくなった彼は、何とか自分一人でもいいから彼ら を助けたいと考え、一緒に死に行くことを決意した。さらにこの時、明石元二郎・元台湾総督の息子と台湾人がやってきて、台湾を助けてくれるよう懇請された。

昭和24年6月末、ついに根本は、宮崎のある漁港から台湾に向けて小さな漁船で密航することになった。総勢12人であった。途中暴風にあったり、警察に捕まりそうになったり、船底に穴が空いたりしながらも、14日目にやっとのことで台湾の港・基隆(キールン)に入ることができた。だが、待っていたのは、密航者としての逮捕であった。

紆余曲折を経て、「日本の軍人が台湾のために密航してきた」と噂になり、上層部の将軍の耳に入り、蒋介石との再会を果たすこととなったのは8月中旬であった。

既にアメリカの軍事援助は打ち切られており、「義理を果たすため、命の危険も顧みず」国府軍を助けるために密航までしてやってきてくれた根本博が、いかなる軍人であったか。そして、蒋介石は、内蒙古派遣軍・司令官であり、陸軍大学のエリートである彼の能力をよくわかっていたのである。



金門島で共産軍を殲滅せんめつさせる

蒋介石は、配下の将軍・湯恩伯(トウオンパク)とともに、現状打開のため「福建行」を承諾し、動き始めた。厦門(アモイ)まで追い詰められた国府軍にとって、指揮命令系統は曖昧な状態で、戦略を立て直す余裕も視点も持たなかった。そのうえ、将軍たちの多くは、戦時において先に自分を守る気持ちを優先した。

軍事顧問となった根本は、アモイを捨て、金門島に守備の重点を置くことを進言した。南北16キロ東西20キロの島であり、船でしか渡れないが、大陸からわずか3キロの金門島に共産軍を迎えて上陸させ、これを殲滅する作戦に出ることを決定した。

共産党軍は、勝ちにおごっていて、油断があるに違いない、そこがつけ込むチャンスだと考えたのだ。共産軍は、徴発した多数のジャンク船で上陸作戦を強行し、両軍合わせて二万五千人(実質の数は不明)の死傷者を出して、10月26日に戦闘は終結した。今まで負け続けていた国民党軍は、最後の戦闘で大勝したのである。

国共内戦は、金門島で終わった。台湾から180キロ、大陸から3キロの金門島での戦闘は、まさに奇跡であった。直後の昭和25年、朝鮮戦争勃発により、アメリカ軍が台湾海峡を護ることも重なり、今でも台湾領で在り続けている。



歴史から消えた根本将軍

根本博は、昭和27年6月27日、羽田に帰国した。

しかしながら、現在の台湾の歴史には、日本軍人・根本博や同行者のことは、1行も記述はない。プライドの高い中国人の特性として、日本の軍人の助けを借りて台湾が大勝利を挙げたなどと、戦史に記述する公式の文書は書けるはずもないだろうと思う。

ただ、蒋介石は、中正記念堂の花瓶一対の片方を、彼に贈っている。根本の胸には、ただ日本人と自分の受けた恩義を、義には義をもってかえすことができた喜びに満ちていた。

昭和41年5月、元陸軍中将・根本博は逝去した。筋道を通し続けた74年の生涯であった。