台湾を救った陸軍中将

根本 博

田上 敏明

内蒙古駐留軍司令官としてソ連軍と戦い、39万人を無事帰還させる

昭和20年8月15日、まもなく正午を迎えようとしていた。

張家口(チョウカコウ)の内蒙古駐留軍司令部・根本博司令官は、これから始まる陛下のラジオ放送がどんな中身なのかを知っていた。

「いよいよこの日が来た…」。

陛下のお声は、旭川連隊時代に聞いたことがある。「皆は元気か」とやさしく柔らかく、それでいてかん高いお声が印象的で忘れるはずがない。

「間違いない玉音だ」。それは、敗戦を告げるものであった。

8月9日には日ソ中立条約を一方的に破ってソ連軍が侵攻し、まだ戦闘状態にあった。根本は、この危機にあって自分に言い聞かせた。「自分の管轄する軍管区にいる4万人の民間日本人を無事に祖国に帰還させること」。「35万人の軍人たちを守ること」。それが自分に与えられた使命である。そう自分を叱咤する気で、全軍及び一般日本人に向かってマイクの前に立った。玉音放送のすぐ後の司令官の放送である。

「日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。皆さんは、今後のことを心配していると思います。しかしわが軍は、私の命令のない限り 勝手に武器を捨てたり、任務を放棄するものは一人もいません。心を安んじて下さい。皆さんは軍の指導を信頼し、軍の指示に従って行動されるよう強く切望するものであります」。

根本は、放送後、全軍に対して「別命があるまで、依然その任務を遂行すべし」「命令に依らず、勝手に任務を離れたり、守備位置を放棄したり、また武装解除の要求に応じたものは、軍律にのっとり厳正に処断する」という訓示をした。


中国通であると同時に、ロシア通でもあった根本は、諜報・情報活動を重視し、ソ連軍の不信、暴虐の本質と危険性を見抜いていた。既にソ連軍の侵攻後3日間の戦闘において、満州の関東軍は「総退却命令」を発出し、ソ連軍に吹き飛ばされていた。このままでは、軍隊に置き去りにされた満州の民間人は悲惨な運命を辿ることになる。

 ここで南京の支那派遣軍総司令部からの戦闘停止、武装解除の命令を受諾したら、この内蒙古駐留軍の庇護下にある4万人余りの邦人および35万人の部下たちの命が危険にさらされることは、火を見るよりも明らかであった、ソ連軍の満州における蛮行は耳に入っており、何としてでも彼らを守り抜かねばならない。

 軍司令官として「命に代えても絶対に果たさなければならない使命である」と言い聞かせて、これまで決めていた通り、ソ連軍または共産軍に対しての「戦闘停止と武装解除」を断固拒否することにした。


 敗戦ですべての財産を失った上に、命までも救えなかったとしたら、軍司令官として、人間として、どうなんだと自問した。彼は、いわゆる日本人らしい人情というか、惻隠の情の持ち主であった。福島の農家に生まれ、漢学者である父は、県庁に勤めながら農家をして、根本を陸軍幼年学校に入れた。

 また祖父母に可愛がられ、特に祖母と一緒に寝る事が楽しみでもあった。根本が学校に戻った後、祖母は「また帰った時に」と言って畑にシャクヤクを取りに行って倒れ、帰らぬ人となった。エリート軍人でありながら田舎育ちの良さを失わない人間であったが、この家族の環境が根本の人格を形成したのであろう。 


 管轄する全軍に対して戦闘を指令したことは命令違反であり、このことによって戦争犯罪人として処断されるかもしれない。だが、自分一人が責任を負えばよい事だし、自分という形にとらわれることなく、与えられた天命に従おうと思ったとき、スーッと気が楽になった。

 根本は、国民党軍の傅作義将軍は信用できる男だから武装解除に応じてもいいと思い、彼が北京に到着するのを待っていた。国民党軍(国府軍)の将軍たちは、日本の陸軍士官学校出身の親日、知日派が多かったのである。