シリーズ「日本が危ない」⑤

若者よ立ち上がれ
(You Tube[令和男塾チャンネル]より)

板﨑 雅光

原爆後の焼け野原の中で

昭和20年8月6日に広島に原爆が落ちました。一家は被災しました。

市街地は、勿論焼け野原ですから、その後バラックを建てまして、かろうじて雨露がしのげるというような状態になりました。

九月の初めになりましたら、母親の髪が三日間で抜けました。そして、尾籠な話ですが、出血と下血、まもなく足・腰が立たなくなりました。そして、そのバラックの中で寝たきりになりました。やがて、意識が朦朧となってくる。そして、半月したら今度は父親が同じ状態になって、両親が倒れてしまいました。

当時は私が小学校六年生、五つ年上の姉が女学校の四年生でした。私の下に妹がおり、その妹の面倒をみながら、両親のそういう状態を見ながら、買い出しをしないといけない。近所には食料はなく、何の配給物もなかったので、私が食料の買い出しに行って、闇市に行く。なかなか闇市でも、食料は手に入らない。それで、田舎の方に買いに行く。

リュックサックを闇市で買って、そのリュックサックに周辺農家で分けてもらった野菜を背負って、夜、広島駅に着く。そして、焼け野原の夜道をとぼとぼと帰ってくると、追いはぎが出るんです。せっかく持って帰っても、子供だから盗られるんです。それをどうやって駆けて逃げるかというような、生きていくだけの、本当に殺伐とした生活をしばらく強いられました。


そのような中で、昭和20年の12月22日に、妹はついにこと切れて、亡くなりました。妹の葬儀は、両親がそういう状態ですから、隣のおじさんが、近所から板を拾ってきて、棺桶を作って、そのおじさんと二人で荼毘に付すという、惨憺たる状態でした。

両親も一年間は寝たきりでしたけれど、おかげでその後、回復してきて、床上げが出来るようになりました。

しかし、気が付いてみたら、あれだけあった国債もきれいに紙切れになっているし、少しあった預貯金は現金封鎖で、どうにもならないようになっているし、現金も超インフレであっという間に値打ちは百分の一、二百分の一になりました。もう大変な時代でした。父親は意気消沈して、酒で気持ちを癒すというのが精一杯。そのような時代も過ぎ、私もやがて、青年になって商売を始めました。

このような悲惨な原爆被害を受けましたが、私はアメリカを恨んだり、憎んだりすることはありませんでした。憎しみは倍返しとなり、憎しみの連鎖が続くだけです。日本の国柄は水に流すことにあります。