有難い国、日本

内藤 賢太郎

元々の日本は有難い国でした。ところが、今は決して有難い国だとは言えなくなってしまった。そこで、日本を元どおりの有難い国にしようと立ち上げられたのが「あたらしい道」でした。

では、元々の有難い日本とはどんな国だったのか。そして、なぜこの国がダメになったのか。また、どのようにして元の日本に還そうというのか。歴史上、かつてない「根の教え」による国替えの取り組みが人知れず、しかし、確実に今、着地点に向かって進んでいるのです。

元々は無心で有難い国―なぜダメに?

元々の日本は人々が平和で、地味に朗らかに暮らす世が実現されていた国です。「平和」とは争いのないことです。争いのない世とはどんな心がけの人々の集まりだったのでしょうか。

答えは二つあります。一つは心がない。無心な人々ばかりが寄せられた世であったということです。心は知らぬ間に汚れがたまる“埃りの巣”であり、埃りが一切の争いごとの原因でありますから、この国に寄せられた一人ひとりに、この心がなかったということが「平和」の礎の第一です。

とはいうものの「心がないなんてあり得ない」と現代人が疑うのは無理からぬことです。

しかし、それは長い時間をかけて心を育て上げてしまった今の私たちの悲しむべき性であって、元々の日本人に罪はない。彼らは天上にちゃーんと日本を本当に抱いて下さっている元があることを知っていました。だから赤ん坊のような素直さでそこにいればよかったのです。

では、なぜ元々の日本人の「無心」が今に継承されないで、心、心、心ばっかりになってしまったのか。原因は二つあります。

一つは「あたらしい道」では次のように教えています。

「日本には神ながらの道がありましたが、これが人間による知恵と学問とに色どられてすっかりおおわれ、殆ど延び方がなくなってしまった」からだというのです。

「神ながら」とは神とともにあるとの意で自我がない、心がないことです。その「神ながらの道」が「知恵と学問とに色どられた」とは知恵と学問のきらびやかさに心がうごめきたって、この道を見失ってしまった。

なぜか。自分たちが天から見守られている日本人だということの確信が失われてしまい、「自分のことは自分で何とかしなければ」。そして、また、「人よりも優位にならなければ」と、知恵や学問に活路を求め、その成果だけを競い合った。その結果、「無心」は自分たちの手元からするりと抜け落ちてしまったのです。

二つ目の原因は舶来思想です。哲学者デカルトは「われ思う故にわれあり」と言って自分の存在を疑うことから考察をはじめました。そして、「意志や知性などの作用(働き)はすべて思惟(思うこと)である」といいました。即ち、自分の意志とか知性とかは自発的に働くものではなく、自分が思うから働くのであって、思わない限り働きになってこない。心が何より先だと言ったのです。

この思想は「無心」の対極にあります。「自分さえよかったらいい」これが心です。自己中心の舶来思想は物質文明を発展させましたが、反面、ものかね中心主義を生み、日本の精神文化を著しく後退させました。かくして「無心」は現代人の手の届かないところとなったのです。