南方熊楠(みなかた くまぐす)

天衣無縫の生涯

市野 一夫

大英博物館

大英帝国で日本人としての気概を発揮

明治25年、熊楠は英国に渡りました。英国はさすが大英帝国と言われただけあって、懐の深さがありました。

つてを頼って、大英博物館の考古学民俗学部長で富豪のサー・オーラストン・フランクスと面会し、熊楠は学識の深さを認められました。フランクス卿の紹介で大英博物館に出入り自由となりました。その頃、科学雑誌『ネイチャー』が星座の構成について論文を募集していました。熊楠はこれに応募し、最優秀論文として「東洋の星座」が選ばれ、一躍有名になりました。この大成功を誰よりも喜んでくれたのは、貴族で、学者として最高の地位にあったフランクス卿でありました。権威主義の日本では無視されていたでしょう。

『ネイチャー』には、「網の発明」、「驚くべき音響」と続けて論文を発表し、ロンドン駐在時に計52本の論文を投稿しています。この間、ロンドン亡命中の孫文と知り合い、年齢も同年代で馬が合い、終生の友となります。

英国生活も10年、勉強の成果は大いに上がり、英国の力もほぼ分かったということで、滞在費も尽きてきたので、このあたりが潮時と日本への帰路につきました。米国、英国と合わせて14年、熊楠の最も多感な青年期を過ごしたことは、彼の中味を大きく成長充実させたと思います。そして米・英両大国の物心両面からの真の力を読み取ったことも、大きな自信になったのではと推察します。

熊楠伝 episode2

ロンドン滞在時、国立ロンドン大学総長で日本通のフレデリック・ディキンズも熊楠の活躍を聞き、総長室に招いた。ディキンズは書き上げたばかりの『英訳 竹取物語』を見せた。熊楠は間違いを指摘したが、これに対しディキンズは「日本ごとき未開国からきた野蛮人が失礼なことを言うな」と怒った。熊楠も負けずに大声で、「日本人が礼を尽くすのは相手が正しき老人の場合だ。間違いを指摘されて反省もせず、怒鳴り返すのが紳士か。高名な学者だからと言って、間違っているもんを正しいと、心にもない世辞を述べるような未開人はイギリスにはいても、日本にはおらん」と反論した。後になってディキンズは熊楠が正しいと思いなおし、大英帝国の権威に屈することなく祖国の名誉のために堂々と抗議した勇気に感動した。二人の友好は生涯続いた。
熊楠がロンドンを去ったあと入れ違いに、東京大学予備門で同級であった夏目漱石がイギリスに留学したが、インテリの悲しさか、うつ病になりロンドンで引きこもりとなった。