最後の大名

林忠崇(はやし ただたか)の生涯

中井 健

幕末から昭和を生きた忠崇の思い

そして最後の大名へ

謹慎を経て明治の世となり、戊辰戦争での敵味方に関係なく、大名は全て華族という貴族階級に置かれる中で、脱藩した忠崇は一庶民として、鍬を取り、算盤を取り、様々な職をしながら苦渋の生活を送りました。林家は甥の忠弘が継ぎ、士族として300石をもらえましたが、忠弘も苦労したようです。

開拓に行ったり、東京や大阪で下級役人として働いたり、函館まで行き商家の番頭まで勤めています。そうして20年以上も苦しい生活をしましたが、明治26年、かつての旗揚げの志に共感した家臣子息の廣部精(ひろべせい)が中心となって奔走し、明治政府から華族の品位を保つ資産が必要との条件を満たして華族となるまでの様子が、忠崇の歌集「おもひ出くさ」の直筆の絵入り回顧録を通じて描かれます。

最後まで頭はしっかりしており、「辞世の句はありますか」と、尋ねられた時は、「辞世はもうやったぞ。あれは明治元年9月21日、仙台でやった。辞世の句は二度ない」と、答えたといいます。

また晩年の作として、「琴となり 下駄となるのも 桐の運」という句もあります。同じ桐の木でも、室内で大事にされる琴になるものも、屋外でみんなに踏みつけられながらもけなげに生きる下駄になるものもある。

長生きした忠崇は、やがて世間から『最後の大名』として注目されます。幕末から昭和を生きた忠崇に去来する思いは如何なものだったのでしょうか。

林忠崇が昭和13年(1938)5月6日に、横浜市の神奈川高等女学校(現在の横浜平沼高等学校の前身)で語った談話が、ここにあります。

「いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です。何せ当時はお互に了解する事の少なかつた時代です。それ故大きな誤解も起る世の中でした。私はどうも薩長のする事が腑に落ちない。将軍は水戸に退隠して謹慎しているのに、これを追窮するのはあまり無理だと思った。

日本国に生まれた者は誰一人として天皇陛下に不忠の者はありません。すべての争いは臣下の間でする事です。両方に分れて争う場合、早く天皇陛下に接近する者が政略上、官軍と称し、他を排して賊軍と言うのだと思います。西郷隆盛の時もそうではありませんか」

これが忠崇の本領だと思われます。忠崇はそれから「世事 雲千変 浮生 夢一場(せじ くもせんぺん ふせい ゆめいちじよう)」と扇面に書いて、こう語っている。

「私の人生はマアこんなものだと思われる。そこで号を一夢(いちむ)と申しております。イヤ夢です。どうも武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。

どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです。この私の微哀(びあい)を知つて徳川家のために一顧(いっこ)を与えられたいと言うのがあったのです。何の野心もあったのではありません。

一度敗れて奥州へ落ちると、薩長のやる事にも系統があり、天下はかなり早く平和になるのでなければ、外国問題も起こります。そして徳川家も駿府で封禄を与へられた。この上諸方に迷惑を掛けるに忍びないと思ひました。榎本(武揚)君など蝦夷へ来いと屡々(しばしば)申して来ましたが、私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。

降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります」。

富士山 林忠崇がいた木更津からは東京湾を挟んで江戸城や富士山を望むことができた。

参考文献
『脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争 徳川のために決起した男』(中村彰彦 WAC)