最後の大名

林忠崇(はやし ただたか)の生涯

中井 健

徳川家への真の心

「ウサギ」こそ林家と德川両家の絆の始まりだった

林家と徳川家の関わりは、室町時代に始まります。林家の遠祖は、小笠原流礼法で知られる小笠原家に遡る。足利六代将軍義教(よしのり)の時代に、家康より9代祖先の世良田有親(ありちか)と親氏(ちかうじ)の父子と、小笠原(林)光政は、鎌倉公方足利持氏に仕えていたが、持氏の家臣の讒言(ざんげん)により、光政は信州林郷(松本市)に蟄居(ちっきょ)した。

やがて将軍義教と足利持氏が争い、持氏が敗れる。世良田有親と親氏の父子は、義教から追われ、諸国を放浪、信州林郷に至る。これが1439年12月のこと。光政は父子を自宅に受け入れ年を越させることにした。ところが饗応(きょうおう)したいのはやまやまであるが、膳に乗せるべきものがない。暮れも押し迫った29日、光政は弓矢を手に猟に出かけた。降り積もる雪の中、獲物はいない。そんな時、田の畔に一匹の兎を見つけ、それを見事に狩ることが出来た。正月に、兎を吸い物に仕立て、麦飯にゴマメの膾(なます)を添えて、心づくしの年賀の膳としました。

後に三河で松平姓となって名を成した親氏は、あの兎こそ瑞兆(ずいちょう)であったと信じ、光政に林姓を与えて、召し抱えた。代々年始の祝宴の儀では、最初に林家に瑞兎(ずいと)の吸い物と、盃を与えるのを常とした。いわゆる「献兎賜杯(けんとしはい)」です。林家の家紋は、盃の下に、一の文字。兜には、兎が彫られています。年始に将軍から真っ先に盃を受ける儀は、江戸時代に一時中断はあったものの、幕末まで続いたのです。

一文字大名の戊辰戦争

林忠崇

こうして残された藩士や領民はお咎めを受けずに済みましたが、請西藩は改易となり、取り潰されました。誇りある德川第一の家臣『一文字大名』林家、そのあるじ忠崇の新政府軍との戦いが始まりました。忠崇たちは幕府海軍の協力を得て、館山から相模湾に上陸し、小田原藩と箱根・伊豆で戦い勝利します。その後、東北諸藩の『奥羽越列藩同盟』と共に戦うも時利あらず、旧幕府軍の相次ぐ敗北により戦況は悪化し、盟主の仙台藩も新政府軍に恭順する。敗退の忠崇に「新政府が德川家存続を許した」との一報がきました。戊辰戦争の大義名分が果たされたとして、忠崇は仙台にて新政府軍に降伏します。江戸の唐津藩邸に幽閉された忠崇は、当然切腹の命が下ると予想し、辞世の句をしたためます。

真心の あるかなきかは
   ほふり出す
    腹の血潮の 色にこそ知れ

德川家への真の心があるかは腹から吹き出る血潮で分かるはずだ、と。