シリーズ「日本が危ない」②

日本の将来と私たちの責任

〜黛敏郎氏が語った30年前の「日本が危ない」〜

黛 敏郎

黛 敏郎(1929~1997年)
作曲家、日本を代表する音楽家の一人。
神奈川県横浜市生まれ。1945年に東京音楽学校(現東京藝術大学)入学。クラシック音楽、映画音楽等、多彩な分野で活躍。テレビ番組「題名のない音楽会」では1964年の放送当初から司会を務め、亡くなるまで30年以上もクラシック音楽の普及に貢献。代表作は、「涅槃交響曲」、「曼荼羅交響曲」、オペラ「金閣寺」。音楽活動の他にも、党友組織「自由国民会議」の代表を終身務めた。

今も色褪せない黛俊郎氏のメッセージ

日本を代表する作曲家で、「あたらしい道」にも理解があった故黛敏郎氏が、昭和62年に行った「あたらしい道」主催の須賀川講演は、当時の「日本が危ない」を如実にとらえた内容でした。

氏の講演は、独特の語り口で日本の危機感を肌で感じさせる興味深いエピソードが多く、30数年たった今もその本質は色褪せていません。それどころか、新型コロナウイルスの影響で炙り出された「日本が危ない」が、すでにこの時代から語られていたことに驚かれる若い方もいるのではないでしょうか。ご年配の方はあの昭和60年代の頃の日本を思い出しながら、若い方は歴史を顧みながら、黛敏郎氏の思いを感じていただければと思います。

「自由国民会議」の代表を続けている理由

ご紹介いただきました黛敏郎でございます。今日はご縁がありまして須賀川にやって参りまして、あたらしい道の主催する講演会の講師として、皆さん方に親しく、私の話を聞いていただくことになりました。(中略)

音楽の活動以外に、私は「自由国民会議」の代表というものを仰せつかっております。これは平たく申し上げますと、自由民主党の党友組織なんです。

福田赳夫さんが内閣総理大臣の時にこの党友組織をおつくりになった。そして、当時の国民運動本部長だった中川一郎さんをその責任者にされた。私はたまたま中川さんと親しかったものですから、彼が私にどうしても一番目の党友になってほしいと口説きに見えたのです。「名前だけですよ」と返事をしたのが運のつきで、いまだに、この党友組織「自由国民会議」の代表という事になっています。

まあ、私が日頃親しくしておりました中川一郎さん、あの悲劇の政治家の思い出がこもっておりますので、いまだに私はこの代表という立場を辱めております。今、党友というのは、実は40万人おります。これは政治団体でありまして、私はその団体の代表という事になりますが、私は別に政治家になる心算はありません。しかし私は、自由と平和を愛する意味で、日本の現在の状態が必ずしも私達が考えている状態ではないと、少しでもそういうことを考えておられる人達のお役に立てばということで、この職にとどまっているわけであります。

音楽家は国際性が強い

音楽家というのは、比較的、外国とのお付き合いの多い職業であります。芸術の中でも音楽というのは国際性が強い。

これに対して、小説は国際性が一番薄いジャンルだといえます。川端康成さんがノーベル文学賞をおもらいになった。これは素晴らしいことでありました。しかし、私はいつも思うんですけれども、ノーベル文学賞をおもらいになった功績は、川端さん一人の功績ではない。川端さんが日本語でお書きになった小説が、英語やドイツ語やスウェーデン語に翻訳される。その翻訳されたものを審査員は読むわけであります。そして素晴らしい文学だから、これはノーベル賞に値するということを決定するわけです。

音楽の場合は違います。たとえば、私が今夜ここでシンフォニーを書き上げて、その楽譜を航空便でパリとニューヨークに送ったと仮定します。それが到着すれば、すぐ演奏ができるから、翻訳がいらないわけです。そしてパリなりニューヨークの聴衆に、すぐ聴かれることになる。ですから、私という作曲家は作品を書く時には、このメロデーはパリの聴衆にどう受け取られるだろう、このリズムはニューヨークの人達にどう聞かれるだろうということを、無意識のうちに考えながら書くことになります。